私が中学校一年のとき。
原爆の写真展示をしていた両親の友人に、私はくってかかった。
なぜあんな悲惨な写真を見せようとするのかと。
見せてどうしようとするのかと。
私はこどもだった。
母の親友は被爆者だった。
私がしっている「おばちゃん」は、一人で三人のこどもを育てていた。
働きながら被爆者団体に入り活動していた。
明るくて優しい人だった。
そのおばちゃんの夫であるはずの人もまた被爆者であること。
被爆者同士の結婚でこどもが生まれたにもかかわらず、夫さんが突然家を出て行ってしまったこと。
残されたおばちゃんは、体調が安定しないのに、一生懸命こどもたちを育てるために働いてきたこと。
長い間音信不通だった夫さんと連絡がとれたこと。
夫さんもまた被爆者として生きることに苦しみ、現実を直視できなくて家をでてしまったこと。
その夫さんには別の家庭があること。
もう家族には戻れないこと。
そんなことを母は話してくれた。
母が亡くなったとき。
おばちゃんは私のそばにそっとずっといてくれた。
ありがたかった。
その年の夏。
新聞の一面に、おばちゃんが外国の人たちと手をつなぎ核兵器廃絶を訴えるデモの先頭にいる姿が載っていた。
ああ、おばちゃん元気でいるんだなあ。
東京で私はその新聞を読んだ。
そして。
夏が終わろうとしていたころ父から電話があった。
おばちゃんが亡くなったのだった。
私は忘れない。
自分が、ナガサキに生まれながら、知ろうとしていなかったときのことを。
だから。
国立六小脇。川に映る木漏れ日が美しい。 |
空の上から、母もおばちゃんも、そして父も私の生き方をみていてくれる。
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