2013年3月24日日曜日

ネギを植えた人

昔、岩波少年文庫で読んだ「ネギを植えた人」という話しを思い出した。

今朝、フェイスブックで私の友人が投稿した文章を読んで、ふと思い出したのだった。
その投稿は、しょうがいしゃの友人とそのひとが暮らす施設の職員の感覚の話しだった。

むかし、朝鮮のあるところで、人間が人間に見えず牛に見えてしまう国があった。
だから自分の親や兄弟さえも間違えて食べてしまうのだった。
ある日、牛を殺して食べた人がいた。
気がつくとそれは自分の兄弟だった。
食べてしまった人は嘆いた。
なんとあさましいことか。

なぜ人間が牛に見えてしまうのか。
どうしたら人間が人間に見えるようになるのか。
その答えをみつける旅に出た。

旅は長く、若かったその人は老人となった。
ようやく人間が人間にみえる国に行き着き、そこでその国の人に問うた。
どうして人間が人間に見えるのですか?
すると。
昔はこの国でも、人間が牛に見えていた。でもネギを食べるようになってから、人間が人間に見えるようになった。
と、答えた。

探し求めていた人は喜んで、ネギの種を分けてもらい、意気揚々と故郷へと帰っていった。
これでようやく人間が人間にみえるようになる!
懐かしい故郷に帰り着いた時。
お腹をすかせた故郷の人たちは、その人が牛に見えた。
殺されて食べられてしまった。
それからしばらくして。
見たことのない青い草が生えて来た。
その草は香しく、食べてみると涙がこぼれた。
美味しいその草を食べたあと、もう人間が牛に見えることはなかった。

というような話しだった(と思う)。

しょうがいしゃが、人間ではなくしょうがいしゃに見えてしまう。
人間ではなくてしょうがいしゃだから、人間である自分とは違うものと思ってしまう。
人間とわかっていたらしないことをしてしまう。
だってしょうがいしゃだから。

ネギを食べればしょうがいしゃも人間に見えるようになるのだろうか。

ネギの種を運んだ人は殺されたけれど、ネギは大地にこぼれ、芽吹き、変化をもたらした。
無名の人たちが成したことはとてつもなく大きい。




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