2013年2月27日水曜日

考えていたこと

弾丸ツアー報告がまだ残ってはいるのですが。

ここのところ受賞や取材の関係で、東京新聞やインターFM、そして「散歩の達人」に掲載されています。
同じ質問がされるわけではないのですが、自分がなぜこの地域で居場所活動をしようと考えたかを再確認することもあり、これまでのこと、これからのことを考え続けています。
だからこそ、熊谷へも出かけましたし、自分の志向がやはり「農商工福祉をつなぐこと」にあるのだなぁ、と改めて思ってもいます。

書類をつくるためにPCに保存している書類を探していたら、こんな文章に出くわしました。
4年前の私の文章です。
どこかに掲載されたわけではありません。
パンフレットをつくるための草稿として書いたものだったと記憶しています。

ブログに載せて、自分への戒めにしようと思います。






谷保は国立市の「もともと」をつくってきた地域です。
ハケの上には国分寺崖線に続く雑木林と桑畑が広がり、坂下には田んぼや梨畑がひらかれた、水と緑豊かな自然に恵まれた地域でした。
その雑木林が切り開かれ、大規模な宅地開発が行われました。
中央線の国分寺と立川の間に駅がつくられ、それぞれの一字をとって「国立」という名がつくられ、直線的なまちがつくられていったのでした。
文教都市「国立」。
大学通りはそのシンボルとなりました。
その一方で、谷保は元々の呼び名「やぼ」を「やほ」と変えました。
まちづくりのビジョンもないまま家々が建ち並び、谷保のまちは姿を変えていきました。
無秩序に開発されたまちは、一方で細い路地や歴史的な遺構や屋敷林や農地などがあり、祭りのための笛や太鼓の音が響き、季節ごとの風習がかろうじて残された複層的な表情を持つまちでもあるのです。
それは谷保に住む人たちがつくってきた歴史であり地域の力ともいえるものです。

それでも。
個人の努力だけでは抗いがたい流れに、様々な人たちの恊働とシェアによって問題を解決しようという試みを、この谷保から発信しようとしています。
わずかに残された農地と細い道でつながった家は、持続可能な農業や暮らしを提案する「場」となり、人と人とがつながる「拠点」となるにふさわしい場所です。
「野暮」だと思い込んでいたことにこそ魅力があふれていたことを再認識し、年齢や職業や様々な違いを持つ人たちが集まり、その違いを認めながらつくりだそうとしている価値は、不安に彩られたこの時代の中で微かでも希望の種になることでしょう。




中途半端な終わり方ですね。
私はこの4年何をしてきたか。
そして何をしていくのか。
いつもいつも問われるなぁ。

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